シェイクスピアの名台詞〜Memorable Speeches from Shakespeare〜

生きるか死ぬか、それが難題だ。
To be, or not to be: that is the question:
作品解説
『ハムレット』3幕1場


おそらく世界の文学作品中もっともよく知られた一節だろう。しかし、何故と訊かれると困ってしまう。確かにこの独白を際立たせる状況は整っている。舞台の上にただ一人立って語る普通の独白と違って、舞台の隅ではオフィーリアが父親の命を受け祈祷台で祈っているふりをしているし、背後にはクルーディアスとポローニアスが隠れて様子をうかがい、ハムレットの狂気を吟味しようとしている。状況そのものが劇的である。しかし、状況だけで一片の文章がここまで有名になるだろうか。内容に秘密があるはずだ。そう思って内容を詳しく見ても、生と死の一般論が敷延されているだけである。大胆に要約すれば、自殺は死後の夢(おそらく神の怒り、裁き)が恐くてできない、ただそれだけだ。究極の解答は不可能だが、ひとつだけはっきり言えることがある。それは、この台詞の音が持つリズム、陰影が心地よい深みへと私たちを誘うということだ。それは英語の音の魅力を知り尽くした天才だけがなし得た舌のための《作曲》の成果だろう。

何千ものハムレット役者が自分流の読み方を生み出すべく工夫を凝らしたことだろう。私がテープや舞台で聴いただけでも、オリヴィエ、ギルグッド、バートン、ジャコビ、ギブスン、ブラナーと6人いる。そして、それぞれの役者がみなそれぞれの時代を反映しつつ、自分流の朗読法を発見している点が面白い。妙に内面の心理を追うオリヴィエ、オーソドックスなギルグッド、泣き節のバートン、ヒステリックなジャコビ、分かり易いギブスン、自身たっぷりなブラナー、みな素晴らしい。そして、みなどこか物足りない。そういうものだろう。しかし、何度か観た日本語の舞台ではこの台詞の印象がまったくない。それが翻訳の悲しいところか。'Love means never having to say you are sorry.'を「愛とは後悔しないこと」などとお手軽に訳して若者に取り入ろうとする奥の手はシェイクスピアには通用しない。

ジョン・フォード監督の『荒野の決闘』(My Darling Clementine)の中に、旅役者がこの台詞をいう場面がある。役者はこの台詞を途中までしか言えないのだが、酒びたりのドック・ホリデイが旅役者に代ってつづきを朗読するという印象的な場面だ。荒くれ男たちの西部劇が突然、錬金術に掛かったように変質する。文学的借景の醍醐味だ。

この独白全文の和訳を参考までに載せておく。

生きるか死ぬか、それが難題だ。一体どちらが立派と言えるのか、残忍な運命の矢玉をじっと耐え抜くのか、それとも、海なす苦難をものともせず戦い抜いて、根だやしにするのか。死ぬことは眠ること、それだけだ。眠りは心の愴みも、この肉体に引き継がれた千もの苦悩も終わらせてくれるならば、それこそ願ってもない終結だが。死ぬことは眠ること。眠る、もしかすれば夢を見る。ああ、そこに差障りがある。この形骸の煩わしさを抜け出た時、その死の眠りの中で一体どんな夢を見るのか、それを思うと決意も鈍ってしまう。憂き世の苦しみに命を長らえるのもこのためだ。抜き身の短剣ひとつあれば簡単にこの世から離れられるのに、誰がおめおめと忍んでいようか、この世の厳しさやや辱め、暴君の非道、驕れるものの横柄、蔑まれた恋の愴み、裁判の遅滞、役人の尊大、小者が有徳の士の忍耐をいいことに働く無礼の数々を。もし、死後の不安がこころを惑わせなければ、誰がこの嫌な世に汗を流してうめきながら、このような重荷を忍んでいようか。だが、死の国は、まだ誰も還ってきた者のない、見も知らぬ国だ。その不安があればこそ、知らない国へ逃れるよりは現在の苦難を忍ぶ方を選んでしまうのだ。こうやって物思う力を持つ故に誰もが臆病者に成り下がり、決意の色も熟慮の青白い色に弱められ、一世一代の企てもこんなことのために横へそれ、ついには実行の名前を失うのだ。


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