アンジェロは、清純なイザベラに欲情している自分を、腐肉にたとえて、さげすむ。同じ光を受けながら、天に向って美しい花を開くすみれであるイザベラと、腐って地に溶けてゆく腐肉の強烈な対比は見事である。そこには、かぐわしい清純と、吐き気を催す淫靡が同居している。この力強いパラドックスは、シェイクスピアの力量と同時に、性に対する態度も示している。
『トロイラスとクレシダ』のクレシダはいかにも蠱惑的に描かれており、その魅惑に籠絡されるのも仕方ないとも言えるが、この作品のイザベラは修道女見習という禁欲の象徴を身に纏っているだけに、その禁忌の衣の内奥に入ろうとする欲望には、蔑まれて当然の、卑しさが宿っている。
しかし、シェイクスピアは果してその卑猥を責めているのだろうか?必ずしもそうではあるまい。『ソネット集』で歌われる情欲には、文脈こそ違え、アンジェロの衝動と共通するものがある。これは性の讃歌ではない。しかし、性への唾棄でもない。そのどっちつかずの態度が悩ましくも魅力的だ。
Copyright (C) 2003 戸所宏之 引用の際はURLの表示をお願いします