VIゼミエッセイ集

正体不明なものへの憧れ
〜隠された病に潜む力〜
英文3年 内田由紀 1999年12月3日提出

主人公が何か重い病気に侵されていて、それを中心に話題がすすみ、見る者、読む者の涙を誘うといったドラマや小説を目にすることは多い。こういった物語ではほとんどの場合、主人公の周囲の人々は必死にその病気の正体を彼(彼女)に隠そうとする。やがて彼も疑いを持ち始め、その疑惑が最大となっても、人々は悪あがきとも思えるほど執拗に病名を隠し続ける。そして、まるでその病気にかかった事は悪いことだとでもいうように、本人だけでなく、なるべく他の人の耳にも入らないように気を使うのである。

ここで注目したいのは、こういった物語でよく取り上げられるのはどんな病気か、ということである。昔の話であれば結核、現代の話であれば癌やHIVがもっとも一般的であろう。もし誰か自分に関係のある人が、これらの病気にかかってしまったとしたら、たいていの人が物語の中の人々のように、その病名を隠そうとするはずである。

それはなぜか。これらの病気の持つ共通点は、いったい何なのだろうか。この疑問に対する応えとしておそらく多くの人が、「それらは死につながる病気だからだ」、「それらの病気を本人に伝えるということは、すなわち死の宣告をすることと同じことになるからだ」といった理由をあげることだろう。

では、心臓病についてはどうだろうか。心臓病で亡くなる人はたくさんいるし、いつ発作に襲われるかという怖れのなかで生活しているのだから、死と常に隣合わせの関係にあり、ある意味、癌やHIVよりも死と一層密接な関係にあるといえるかもしれない。しかし、心臓病を抱えている人のほとんどが、自分の病名をきちんと知らされている。そればかりか、細かな病状まで把握している人さえいる。誰もその病名を隠そうとはしないのである。もっと言えば、胃潰瘍だって、腎臓病だって、盲腸だって、ほおっておけば死に至るのだから、死に通じる病だということができる。反対に、癌が完治する人もいれば、HIVに感染していても、発症せずに一生を終える人だっている。そうなれば、これらは死とは関係のない病気だ、ということだってできる。

結核や癌、HIVを人々が隠したがるのは、それが死に通じる病気だからではない。我々はそれらの病気に潜む恐ろしい力を、我々の体に入り込み、支配する、意志を持った「何か」を感じ取っていて、そのことを隠したがっているのである。

このことは、精神病について取り上げることで、もっと明らかになる。精神病が原因で自分で自分を死に至らしめてしまうことはあったとしても、精神病それ自体が人を死に至らしめるということはありえない。したがって、精神病を死に通じる病気と呼ぶことはできないのである。しかし、人々は結核や癌、HIVと同じようにこの病気を隠したがる。前述の病気と異なるのは、本人に対して、周りの者がそれを隠したがるのではなくて、本人が自分に対して隠したがる(その病気を認めようとしない、またはそれに気が付かない)のである。

精神病といっても様々であるが、多くの患者が共通して持っている感覚は、自分の中に自分以外の「何か」が入り込んでいて、その「何か」が自分に様々な影響を与える、というものである。この病気を人々が隠したがるのは、その自分のなかの自分ではない「何か」を隠そうとするからなのである。

以上述べてきたように、先に述べた病気や精神病にかかるということは、自分以外の「何か」が自分のなかに住み着いてしまったということを指す。人は正体のわからないものに対して、激しい恐怖感や、嫌悪感を示す。正体がわからないから自分の力ではどうすることもできないと感じ、得体が知れないからそこにおぞましく不吉なものを感じるのである。そのため、そんな恐ろしいものが、体の中に入り込んでしまっているなどということは、本人にはもちろん他人にも言えるはずがないのである。それに対し、心臓病やその他の病気は、単に体に組み込まれている機械が故障したことを指すため、人に隠す必要などないのだ。

このように人間は正体のわからないものに対して、激しい恐怖感や嫌悪感を抱くわけだが、このことは我々の普段の生活の中にも大いに反映している。我々は自分の周囲から正体不明のものをなくそうと心がけているのである。

その一例として、制服というものをあげることができる。制服を着用する主な理由は、仕事に適した服装をするためだといえるだろう。しかし、制服にはもうひとつ大事な役割がある。その役割とは、自分が何者なのかを、他人に知らせるというものである。「自分はこういう者で、こういった所に所属しています。」というメッセージを、他人に対して提示しているのだ。周囲の者もそのメッセージを受け取って初めて安心してその人に接することができるのである。近年、多発している制服を用いた犯罪は、このような制服の役割を巧みに利用したものである。本来、自分は何者であるのかを示すはずの制服を、自分の正体を隠す仮面として使用し、人々を騙すのである。つまり、得体の知れないものに対する人間の恐怖心や警戒心を、制服という仮面を使って取り除き、そこにできた隙間につけこむのである。

しかし人間は、正体のわからないものに対して嫌悪感や恐怖感を抱く一方で、自分は他人にとって正体不明の存在でいたいという願望を持っている。その典型とも言えるのが、近年多くの人々が利用しているインターネットでのチャットである。チャットでは、自分が何者であるのか本当のことを言う必要などない。仮の姿で人と接し、相手に対して優越感を持つことを楽しむのである。この優越感はいったいどこからくるのであろうか。それは、先に述べたような病気に潜んでいるあの得体の知れない「何か」が持っている強大な力に関係する。人々は自分の正体を隠すことによって、あの正体不明の「何か」が持っているような強大な力を自分も手に入れることができたという錯覚を起こすのである。自分の内にありながらそれをどうすることもできない、あのもどかしさを自分も誰かに与えているという感覚が優越感を生むのである。

人々がその「何か」に対して抱く恐怖心は、実はそれに憧れている、それが持っている力を自分も手に入れたいと切望していることの表れなのかもしれない。


《参考文献》
スーザン・ソンタグ著富山太佳夫訳『隠喩としての病い』(Illness as Metaphor)


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