Antonio: In sooth I know not why I am so sad.
アントーニオ:どうしてこんなに気が滅入るのだろう
(『ヴェニスの商人』開幕の台詞)
『ヴェニスの商人』は奇妙な始まり方をします。主人公であるアントーニオの理由のない憂鬱は、霧のようにこの作品全体を覆っています。話自体はおとぎ話のように他愛もないものです。筐選びによる婿選び、借金の交換条件としての人肉、どちらの筋もあまり現実味はありません。それでも、どこか愁いの陰を感じるのがこの劇の特徴です。恋人たちの駆け落ちはロマンティックであると同時に、どことなく罪の匂いがします。幸せいっぱいのはずのロレンゾーは別天地ベルモントでジェシカに
How sweet the moonlight sleeps upon this bank!
(なんてきれいに月明りがこの堤を照らしているんだろう)
と詩的な台詞を歌いあげた後、天上で鳴り響く音楽について語って聞かせ、最後に
But whilst this muddy vesture of decay
Doth grossly close it in, we cannot hear it.
(滅び行く穢れた泥の着物に包まれているから、僕らの耳には聞こえないんだ)
と、少し投げやりに言います。愛する人のそんな気分に呼応するかのようにジェシカも
I am never merry when I hear sweet music.
(いい音楽を聞いても楽しい気持ちにはなれない)
と、嘆きます。あまり幸せいっぱいではないのです。
この作品でもっとも重い役はシャイロックです。シャイロックが単純な悪役だったら、役者にとっても、演出家にとっても、また、観客にとっても楽だったのですが、シェイクスピアはこのユダヤ人を実に生々と描き、皮肉なことに、彼の全作品中でも屈指の登場人物にしてしまいました。とても単純な悪役ではないのです。ですから、そのシャイロックが裁判に敗れ、みんなの罵声を背中に浴びつつ、とぼとぼと引っ込むところなどは、罪悪感のようなものを感じます。
憂鬱の霧がこの作品の主題です。私たちの「ヴェネチア組曲」はこの作品の双子です。でも、少し違った霧が舞台を包みます。どんな霧でしょうか?それは観てのお楽しみ!
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